灰色の空の下、冷たい風が吹いていた。二十八歳、2000年の冬。東京地方裁判所の正門前で、ビデオと写真撮影用のカメラを持つ会社の先輩二人と一緒に立っていた。「他に誰もいないけど、大丈夫?」。先輩達が疑いの目をこちらに向ける。「大丈夫です。今日一番のビッグニュースですから」目の前を、数人の原告と弁護士の集団が足早に通過し、裁判所の中へと消えて行く。
日中戦争中に日本軍が中国の黒竜江省で遺棄した化学兵器によって被害を受けた中国の人が、日本政府から損害賠償を求めた訴訟。その第一回口頭弁論[1]の日。夕方や翌日の朝刊に、裁判の記事はなかったが、気にならなかった。戦後補償の裁判は全部記事にする、そういう気持ちだった。
その決意は徐々に薄らいでいった。小泉政権が誕生、「自虐史観」を批判する声を意識するようになった。米国同時多発テロ事件が起き、仕事も慌ただしさを増す。
安全な場所から過去の事に対し批判的な姿勢を取ることで、優越感に浸り自己満足を覚えているだけではないか。戦後補償問題について、だんだん書かなくなっていった。
価値観と向き合うことを避け、逃げる事を正当化しただけかもしれない。近い将来、またその価値観と向き合う時が、来る気がする。
[1] 「第一回口頭弁論」の日だったか確信はないが、少なくとも判決が出るのはもっと先、という状況だったと記憶している。
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