【書評】Cosmopolis, Don Delillo, Picador, 2004 (First published 2003 by Scribner, a division of Simon & Schuster, Inc. New York), 209 pages.

 マーケットの見通しを間違え、自分が取ったポジションが損を抱えてしまう。どこかで市場の潮目が変わり、利益に転化することを期待して待つものの、無慈悲にもアゲインストの風が吹き荒れる。そのうち桁が変わる。ポジションを閉じると、巨額な損失が確定してしまう。

 このような悪夢のシナリオに直面するのが、本作品「コスモポリス」の主人公、エリック・パッカー。時は24年前、2000年4月のある日。二十八歳にして、マンハッタン中心部の98階建てマンションの48室を独占し、自分のオフィス兼住居として所有。プール、カードゲーム部屋、ジム、サメを飼う水槽、映写室を完備したその拠点で、世界中の通貨の動きを追い、儲けのチャンスを狙う。ビルのエレベーター2台を占有し、住民のひんしゅくを買うがおかまいなし。その日の気分によって、クラシックのBGMが流れゆったり下降していくものと、力強いラップミュージックが躍動するものを使い分ける。

 資産運用で築いた莫大な富を惜しみなく消費する彼は、過去に310万ドルを投じ、ベルギーの武器商人から旧ソ連の戦略爆撃Tu-160ブラックジャックAをカザフスタンで購入し、カザフスタンの砂漠上空で30分操縦した経験もある自信家だ。だが、最近は不眠に悩まされることが週4,5回に上るなど、不調の兆しがあり、本人の言動から迷いも感じられる。

 著者ドン・デリーロの金融取引に関する描写はなかなかリアルだ。主人公が抱えているポジションは、超低金利の円を借り、それを原資に、高リターン狙いで外国の株式に投資するという「円キャリートレード」の一種で、巨額の借り入れにより成り立っている。ポジションが巨大な故に、その変調による影響は広範に渡り、システム全体をリスクにさらしかねない。主人公曰く、円が上がれば上がるほど、借り入れ返済の負担は増える。それでもその賭けから撤退しないのは、円がこれ以上は上昇しないと確信しているから。

 この小説の舞台の2000年4月は、日本銀行が一度目のゼロ金利政策からの脱出を模索し始めていた時期で、アメリカの政策金利は6パーセントもあった。アメリカと日本の政策金利の差は、2024年5月現在の約5パーセント、より大きかったわけで、政策金利差でみる限り現在よりドル高・円安であってもおかしくなさそう。だが実際には、2000年4月3日にドルはアジア時間に103円を割り、円は、東京市場の取引としては、年初来の高値をつけた。

 日本の当局が8兆円規模のドル売り、円買い介入を実施したのではないかと報じられた後も、ドルは155円近辺で推移し、円の実質実効レートは1973年の変動相場制開始以来の最安値付近、という現在の状況とは隔世の感がある。

 小説で扱っている日の東京時間中に日本銀行は金融政策の現状維持を決定し、利上げを見送った、と描かれている。2000年4月の決定会合は2度あり、一回目は4月10日。ドル円の値動きと合わせて考えると、エリックが運命の一日を迎えたタイミングは2000年の4月初旬だったのではないだろうか。

 当日の朝、エリックはいきなりピンチに直面する。前の晩、東京・ロンドン市場で円は大方の予想に反し、上昇。(”The yen rose overnight against expectations.”)時がたつにつれ、彼の円売りポジションの損失はどんどん膨らみ、数億ドル規模にまで拡大する。そんな彼の、この日の願いは、散髪しに行くこと。ちょうど大統領がマンハッタンを訪問中で道は大渋滞だが、セキュリティ担当スタッフの反対を押し切り、行きつけの床屋を目指す。

 途中、投資家によるリスク回避の動きを誘発しそうな事案が発生したり、2011年9月に起きた「ウォール街を占拠せよ」運動を彷彿とさせるようなデモが起きたり、落ち着かない、騒々しい一日である。そういった中、円高は容赦なく進み、エリックの投資会社、パッカーキャピタルの損失は「数億ドル」規模に膨らむが、本人は取り乱さず、あくまでストイック。むしろ巨額損失を被ることで自分の万能感を再確認している雰囲気すらある。

 なお、本作品は2012年に映画化されており、監督はホラー映画の巨匠、デヴィッド・クローネンバーグ。この奇妙な物語を映像でどのように表現したのか、一度見てみたい気がする。

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