
この本、”The Last Warrior”の副題は、現代の米国防衛戦略の策定にアンドリュー・マーシャルなる人物が深くかかわってきたことを示しているが、米国の安全保障政策の専門家でもない限り、「アンドリュー・マーシャルって誰?」と思う人も多いのではないだろうか。[1]
それもそのはず。1969年に発足したニクソン政権から、2015年のオバマ政権までの各政権の国防長官の下で働きながら、2019年に97歳で亡くなったマーシャル[2]はほとんど表舞台に出る事はなかった。世間の注目を浴びることを避ける性格。長年の経験と知見。そして多くの学者や政策担当者を育て上げた手腕。そのような本人の特長への親愛もこめて、安全保障分野の専門家は、彼の事を映画スターウォーズ・シリーズのジェダイマスターになぞらえて、「ヨーダ」と呼ぶ事もあったそうだ。[3]
生命力を源泉とした力、「フォース」を駆使するジェダイ戦士を育成したヨーダのように、マーシャルは後輩の指導には余念がなかった。彼の薫陶を受けた研究者の一人であるロバータ・ウォルステッターが著した「パールハーバー ――警告と決定」は、意思決定において組織が果たす役割や、不透明要因を考慮せずに分析を行う事の危険性等、マーシャルが当時関心を持っていたテーマを掘り下げ、米国内で高い評価を得た。[4]
ウォルステッターはその中で、米国が太平洋戦争勃発以前からマジックという暗号解読技術によって日本の秘密外交通信の解読に成功していたにも関わらず、なぜ真珠湾に対する奇襲攻撃を防げなかったのか、という問題の解明を試みている。その研究によると、米国は真珠湾攻撃の可能性を明確に示唆する情報を15件は得ていたという。それでも米国が攻撃を予見できなかったのはなぜか。その一つの理由は、マジックの秘匿性保持を重視した為、暗号解読によって得た情報の共有が不十分であった事を、ウォルステッターは指摘している。さらに、正確な情報シグナルと不要な雑音を見分けることの難しさが情報分析の典型的な課題として存在し、それによる情報分析の失敗は完全には防ぎきれない、とウォルステッターは結論づけている。[5]
なお、この本の共著者の二人、アンドリュー・クレピネヴィッチとバリー・ワッツは30年以上に渡りマーシャルの知遇を得て、戦略論や軍事史の研究を進めた経歴を持つ。
ネットアセスメントの確立
さて、マーシャルの最大の功績と言っても過言ではない、国同士の国力や軍事力を比較し、総合的戦力バランスを評価する手法である「ネットアセスメント」はニクソン政権の下で確立され、マーシャルは1972年8月に作成した「ネットアセスメントの規模と本質」という資料の中でその哲学を披歴した。[6]ネットアセスメントの目的は何か。そしてなぜ1970年代前半にその必要性が生じたのか。
本書によると、当時、ベトナム戦争を経て米国国内で軍事費削減にむけた圧力が強まる一方、ソ連の軍事支出は米国を上回りそうな水準に達し、軍事技術格差は縮小しつつある、とみられていた。つまり、米国が軍事力を含むあらゆる面で他国を圧倒する優位な立場にある、というのはもはや過去の話になりつつあり、いかに効率的に最大の競争相手であるソ連と対峙するかが米国にとって重要な課題として浮上していた。[7]
その課題解決の端緒となるネットアセスメントの手法は、「米国の武器システム、戦力と政策を諸外国のものと慎重に比較」[8]することであった。また、そのねらいは具体的な解決方法を提示することではなく、あくまで正確な情勢把握の提供にあり、言わば治療方法の提示ではなく、正確な診断を行うことを主眼に置いていた。[9]
冷戦期のネットアセスメント
ネットアセスメントの手法が確立される中、ジェームズ・シュレジンジャー国防長官の説得を受けたマーシャルは1973年10月に国家安全保障会議から国防総省に移り、新設されたOffice of Net Assessment (ONA)のディレクターに就任する。[10]
シュレジンジャーの下でマーシャルが真っ先に取り組んだ事案の一つは、北大西洋条約機構(NATO)軍とワルシャワ条約機構軍の戦力バランスの評価と、米国側がソビエト社会主義共和国連邦(ソ連)側に対して抑止力を発揮するにはどのような態勢を構築すべきか、といった問題であった。本書によると、相手からの攻撃を抑止する上で重要なのは、自国側が戦力バランスをどう評価しているかではなく、あくまで相手が戦力バランスをどう評価しているかを把握する必要がある、とのこと。[11] いくら主観的に見て盤石な防衛体制を敷いているつもりでも、相手がそれを脆弱性の多い戦力、と認知するようであれば抑止力としては機能しないという事なのだろう。その意味で、ソ連側が軍事面において費用対効果をどのようにして計算しているのか、その思考方法を把握する事がまず必要であった。[12]
本書によると、マーシャルおよび国防長官シュレジンジャーと、国家安全保障問題担当の大統領補佐官ヘンリー・キッシンジャーの間では米ソ冷戦対立の情勢判断において大きな隔たりがあったとされる。ベトナム戦争や経済の停滞、ウォーターゲート事件を経て1974年8月にリチャード・ニクソン大統領が辞任したこと等を受け、キッシンジャーの目には米国の地位は弱体化しつつあるように映っていた。その現状認識をもとにキッシンジャーはデタント(緊張緩和)と軍縮交渉を追求し、ソ連との軍事的そして地政学的競争を減らすために奔走。そのアプローチを評価する者も多かったという。[13]
米国の地位低下およびソ連の追い上げを懸念するキッシンジャーの姿勢は、1972年5月に妥結した戦略兵器制限交渉[14](SALTもしくはSALT I)および弾道ミサイル制限条約(ABM)条約[15]等の米ソ間交渉にも表れていた。本書によると、その動きを二超大国間の緊張緩和時代の幕開け、と評価する見方もある一方、米国が核兵力関連支出を抑制する間にソ連に兵力を増強する機会を与えてしまった、という批判的な見方もあったとされる。[16]
一方、マーシャルやシュレジンジャーは、ソ連において軍事支出が国民総生産に占める割合があまりにも大きく、長期的には維持不能な水準にある、と考えていた。それはすなわち、時間の経過とともにソ連の経済と国力は疲弊し、米ソ対立の長期化は米国に有利に働くことを示唆していた。[17]
中国の台頭と軍事技術革命の進展
冷戦終結前の1987年頃から、マーシャルの関心はすでに中国の台頭と軍事技術革命の影響に向けられていたという。[18]そういった中、この本の共著者の一人であるクレピネヴィッチは1992年7月に軍事技術革命[19]についての暫定評価に取り組んだ。それによると、技術革命のもと将来的には多くの軍事作戦が陸、海、空、宇宙のうち複数の領域で展開されるようになり、作戦の実施および支援行動における宇宙空間の重要性が高まる事が予想された。[20] また、情報戦で優位に立てた軍事組織は、敵に直接接触する事を避けるようになり、目標を視認できない状況からの射撃の割合が増加する、という分析結果が導き出され、将来的に情報ネットワークと高精度攻撃能力の組み合わせの重要性が増す事を示唆していた。[21]
高精度攻撃能力や戦闘用ネットワークの分野で米国は長らく他の追随を許さなかったが、2005年前後から情勢は変化し、長距離センサー、高精度の弾道ミサイルや巡航ミサイル、情報を駆使した作戦の追求、等の技術に支えられた中国のAnti-Access/Area Denial (A2/AD、接近阻止・領域拒否) 能力[22]が、米国が西太平洋に展開する部隊に対し深刻な脅威となり始めたという。[23]
本書の感想
さて、本書の内容の紹介が長くなってしまったが、それだけ印象に残った箇所が多かったと言える。「ヨーダ」なんてあだ名がつくのはどんな感じの人物なのだろう、というところから始まり、ネットアセスメントという、実際にやろうとすると膨大なリサーチと思索が必要そうな概念に興味を覚えた。
本書で紹介されているウォルステッターの真珠湾攻撃に関する著作も是非一度読んでみたいと思い、神田の古本屋街で探してみたが、まだ見つけられていない。米軍が得ていた、攻撃の可能性を示唆する情報とはどのような内容だったのか、そしてなぜそういった情報が米国側で十分共有されなかったり、重視されなかったりしたのか、その分析結果についてもっと知りたい気がする。
冷戦期の米ソ対立についての記述にも興味をそそられた。本書の共著者やマーシャルの目には、キッシンジャーが米ソ間の力関係について必要以上に慎重で悲観的な見方をしていたように映った、という指摘は興味深かったし、米ソ間競争の長期化は米国に有利に働く、という仮説にたどり着いていたのはすごいと思った。
本書の後半については、1980年代後半から中国の台頭に注目していた、とされる点に興味が惹かれた。2024年現在の米国の対中関係は、彼の目にはどのように映ったであろうか。
また、接近阻止・領域拒否(A2/AD)能力や軍事技術革命の発展が米国の軍事戦略に与える影響についての内容は、現在の国際情勢を考える上でも役に立つ気がする。
この本から得た教訓は何だろう。まず一つに、組織が正確な情報を得ても、それがしかるべき担当者に共有されなければ宝の持ち腐れになり得る、という点が挙げられる。それに加え、抑止力のように、相手の行動に影響を与える能力を有効に働かせるには、まず相手の考え方を知り、相手側の視点を把握する必要がある、という指摘も印象に残った。日常生活やビジネスにおいても活用できる内容ではないだろうか。
[1] 自分が初めてアンドリュー・マーシャルのことを知ったのは、加藤陽子「戦争まで:歴史を決めた交渉と日本の失敗」朝日出版社、2016年、279-282項を読んだ時。
[2] Julian E. Barnes, “Andrew Marshall, Pentagon’s Threat Expert, Dies at 97,” New York Times, March 26, 2019, accessed June 2, 2024. マーシャルの経歴については、本人が2017年に共同で設立した財団のサイトにも記載がある。“History,” on the Andrew W. Marshall Foundation’s official website, accessed June 2, 2024, https://www.andrewwmarshallfoundation.org/about/history/.
[3] 本書、Andrew Krepinevich and Barry Watts, The Last Warrior: Andrew Marshal and the Shaping of Modern American Defense Strategy, (New York: Basic Books, 2015), xxi.
[4] 本書、41-42項。ウォルステッターの著書は、Roberta Wohlstetter, Pearl Harbor: Warning and Decision, (Stanford: Stanford University Press, 1962.) 邦訳版は、ロバータ・ウォルステッター、北川知子訳『パールハーバー ――警告と決定』日経BP社、2019年。
[5] 本書、Krepinevich and Watts, The Last Warrior, 41-42.
[6] 本書、89項。2ページ半と短めの、国家安全保障会議用のメモだった、とのこと。
[7] 本書、90項。
[8] 本書、90項。
[9] 本書、91項。
[10] 本書、95項。
[11] 本書、113項。
[12] 本書、114項。なお、相手側の思考や行動様式、費用対効果計算に影響を与えることの有効性を示す例として、本書は1980年代半ばにレーガン政権が打ち出した戦略防衛計画(SDI: Strategic Defense Initiative)を挙げている。ソ連の軍事理論では各作戦が非常に高い確率で成功する事が前提となっていたため、SDIの有効性がわずか15パーセント程度でもソ連側の計画に影響し、抑止効果につながったと考えられるとしていて、未公表の分析ペーパーを引用しながら説明している。本書、169項。
[13] 本書、96項。
[14] “Strategic Arms Limitation Talks (SALT I),” U.S. Department of State, archive of information released online from January 1, 1997 to January 20, 2001, https://1997-2001.state.gov/www/global/arms/treaties/salt1.html, accessed June 2, 2024.
[15]「ABM条約」、外務省、(https://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/kaku/beiro/abm.html)、2024年6月2日閲覧。
[16] 本書、97項。
[17] 本書、107項。
[18] 本書、193項。
[19] military-technical revolution(MTR)本書、205項、266項。
[20] 本書、206項。複数領域での軍事行動や、宇宙空間の重要性の高まり、等の認識はその後のAir-Sea Battleの概念と共通している。“Air-Sea Battle: Service Collaboration to Address Anti-Access & Area Denial Challenges,” U.S. Department of Defense, Air-Sea Battle Office, May 2013, accessed June 2, 2024, 2, https://dod.defense.gov/Portals/1/Documents/pubs/ASB-ConceptImplementation-Summary-May-2013.pdf
[21] 本書、206-207項。
[22] 前述した米国防総省の2013年5月付の資料 “Air-Sea Battle: Service Collaboration to Address Anti-Access & Area Denial Challenges” によると、Anti-Access(A2接近阻止)とは友軍戦力の戦域への投入の遅延や、接近の阻止を目的とする相手の行動を指し、友軍の戦域への移動に影響する。Area-Denial (AD領域拒否)は、友軍戦力の戦域内での作戦行動を妨げる行動を指し、友軍の戦域内での移動に影響する。
[23] 本書、207項。このようなA2/AD能力への対抗手段として米国が編み出したのがAir-Sea Battleという概念で、相手の通信、情報、監視、偵察能力等を攪乱した上で、相手のミサイル基地、艦船、航空兵力等の攻撃手段や、相手が発射した兵器の破壊を目的とする。 本書、244項。
その後、Air-Sea Battleの発展形としてJoint Concept for Access and Maneuver in the Global Commons (JAM-GC)が生まれた。JAM-GCは相手のA2/AD能力の解体、といったリスクの高い目的達成を主眼とはせず、相手の作戦や意図を阻止する事に注力する点に違いがあり、他国のA2/AD能力が当初の想定より早く進化した事を考慮に入れた概念だとされる。Michael E. Hutchens, William D. Dries, Jason C. Perdew, Vincent D. Bryant, and Kerry E. Moores, “Joint Concept for Access and Maneuver in the Global Commons: A New Joint Operational Concept,” Joint Force Quarterly 84, January 2017, 136, https://ndupress.ndu.edu/JFQ/Joint-Force-Quarterly-84.aspx, https://ndupress.ndu.edu/Media/News/article/1038867/joint-concept-for-access-and-maneuver-in-the-global-commons-a-new-joint-operati/, accessed June 2, 2024.
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