
この本、「戦後:1945年以降の欧州の歴史」[1]とその著者、トニー・ジャットはすこぶる評判がいい。
本書の表紙には「素晴らしい」と「圧倒的」といった言葉が躍り、裏表紙には「本当に素晴らしい、比類なき成果。今日のヨーロッパが、1945年の灰塵から起き上がってきた過程の歴史について、本書の内容を凌駕し、本書より読みやすい本が今後書かれる事は想像しにくい。」という趣旨の、歴史家でナチス・ドイツの研究者イアン・カーショーから贈られた最大級の賛辞が記載されている。

自分はこれまで欧州の歴史に対して苦手意識を持っていた。高校時代に世界史の授業で「神聖ローマ帝国」が出てきた辺りからずっと、半ばギブアップ状態だったが、あまりにも絶賛されている本だったため、思わず買ってみたくなった。[2]
本書の著者トニー・ジャットは1948年ロンドン生まれの歴史学者。2010年に亡くなるまで、欧州史の専門家として活躍した[3]。カルフォルニア大学やオックスフォード大学で教鞭をとった後、1987年にニューヨーク大学に移り、1995年に欧州と周辺地域の研究に特化したレマルク研究所を設立した。執筆もしくは編集した本は12冊に上る。
本書の前書き部分をまだ10ページほど読んだだけだが、今のところ、全く期待を裏切らない内容である。欧州の戦後史は著者にとって自身の人生と重なる同時代史であるため、公平でなるべく客観的な物の見方を遵守しつつも、著者の意見と解釈がふんだんに盛り込まれている旨の決意表明が打ち出されており清々しい。なるべく公平で客観的な手法を心がけつつも、自身のバイアスをどんどん打ち出していくぞ、というアプローチは、自分が最も好きで、共感できるスタンスだ。
書き手の意見や解釈、つまりバイアスが、正確な事実や論拠に裏付けされていなければ、それは説得力を持ちえない。また、正確な事実が示されていたとしても、そこから著者が繰り出す論理展開や解釈に賛同できるとは限らない。ただ、そのような判断材料が明確に提示さえされていれば、仮に著者の意見に賛同できなかったとしても、意見の相違の背景は明確になるはず。読者がそこをしっかり確認し吟味できれば、事象を異なる視点から認識する方法や、新しい理解を得る事ができるかもしれない。
むろん、記事や文章の内容によっては、なるべく解釈は加えずに事実を正確に伝える事に重きを置いた方がいい場合もあるかもしれないが、そういった場合でもどの事実が重要で、どれが些末で省略可能か、と判断する時点で書き手の主観と解釈がその文章には反映される。なのでバイアスを完全に省く事はできない。また、事実を羅列するだけなら、書き手が誰でも大差ない記事や文章になってしまう。著者の意見や解釈が明確に打ち出されている文章こそ、読者の琴線に触れるのではないだろうか。少なくとも自分は、書き手のバイアスこそを読みたい。その上で、自分がそういった考え方や意見に賛同できるか、できないとすればなぜか、考えてみたいと思う。
という事で、いきなりストライクゾーンど真ん中に投げ込まれてきた剛速球のような本書の出だし。いやが上にも内容への期待は高まる。
本書が扱うのは第二次世界大戦後の欧州の歴史で、ドイツで「零時」(Stunde Null )と呼ばれる1945年以降の事象。その歴史に深い影を落としているのが1914年に始まり欧州を破局に陥れた、著書が言うところの「30年戦争」。[4] 第一次世界大戦は参加国すべてに多大な犠牲をもたらした上、「何も解決しなかった」と著者は喝破する。世界大恐慌による経済的混乱にも見舞われた陰惨な雰囲気の戦間期、および第二次世界大戦も含むその年月がもたらした結果は「一つの文明の破壊」であったと著者は指摘する。
その後のヨーロッパ戦後史には、下記の大きなテーマが流れているという。
- ヨーロッパの減退:1945年以降、「帝国」を保持できるような国は欧州にはなくなった。ソ連とイギリスはその例外と捉える事もできるが、両国とも自身の事を「半」欧州的な存在としか認識しておらず、いずれにしても本書が扱う期間の末である2005年頃にはその影響力は減退していた、と著者は指摘している。
- 欧州における政治行動や社会運動の推進力となっていた、19世紀以降に台頭した、進歩、変化、革命等をモデルとして取り入れた歴史理論の後退。
- 社会民主的、およびキリスト教民主主義的な立法と欧州共同体や欧州連合を中心とした国家間関係を特長とし、アメリカ的な価値観に対するアンチテーゼとして21世紀初頭には存在感を増すようになっていたヨーロッパ・モデルの誕生。
- ヨーロッパとアメリカの複雑で誤解されがちな関係性。西欧の人々は、アメリカが1945年以降も欧州に関与し続ける事を望む一方、その関与へ反感を抱き、それが示唆する欧州の減退という概念に対しても反発していた。
- 「沈黙」が影を落とす歴史:様々な言語、宗教、社会と民族が、欧州大陸において「複雑なタペストリー」を織りなしていたが、そのような「古い」欧州を理想として捉えるべきでない、と著者は主張する。
著者が指摘した5つの大きなテーマを意識しながら、少しずつ933ページに渡る本書を読み進めていきたい。今年中に読み終われると素晴らしいが、果たしてそううまくいくだろうか。興味深い内容にたどり着いたら、随時紹介していきたい。
[1] 2008年にみすず書房により出版された日本語版の題名は「ヨーロッパ戦後史」。
[2] 8月28日に日本版アマゾンで新品(といっても2010年の本)が2724円で販売されていて、残り一冊だったので思わず注文した。洋書はペーパーバックでも最近3000円~4000円台が多いので、それに比べるとリーズナブルな感じがした。イギリスでの定価は約17ポンドで、今の為替レート1ポンド約192円で計算すると3264円になるし、メルカリで中古品も出てなかったし、悪くない値段か。
[3] ジャット氏の経歴については下記のソースを参照した。
Remarque Institute website, “History of the Institute,” and “Tony Judt,” Accessed on Aug. 31, 2024.
The New York Review of Books website, “Tony Judt,” Accessed on Aug. 31, 2024.
みすず書房ウェブサイト、「トニー・ジャット」2024年8月31日参照。
[4] 本書、4ページ。第一次世界大戦、その後の戦間期、そして第二次世界大戦を指す。
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