
本書、『私とは何か』に登場する概念とよく似た話を耳にしたり、目にしたりする機会が時々ある。その都度、やっぱりそうだよな、と改めて著者の主張に賛同している自分がいる。最近そういう事が結構しょっちゅうあったため、十年以上前に出版された本だが、あえて今更ながら感想を書いておこうと思った。
本書の著者、平野啓一郎は1975年生まれで1999年に京都大学法学部在学中に文芸誌に投稿した小説で芥川賞を受賞。その後も数多くの作品を発表している。当時、芥川賞受賞作の『日蝕』を書店で手に取って少し読んでみたものの、内容が自分にとってはあまりにもヘビーで難解だったため断念した覚えがある。それ以来、ずっと気になっていたものの、著者の作品を読んでみよう、と挑戦する機会はなかなかおとずれなかった。
そういった経験を経て本書に出会ったのはここ数年の事。新書のため、比較的とっつきやすいように感じられた上、テーマも人間関係とコミュニケーションという自分にとって永遠の課題と言っていい内容を扱っていて、著者がどう考えているのかが大変気になり、思わず本書に手が伸びた。
読み始めるとめっぽう面白かった。もう少し若いころに読んでおけば自分の社交的スキルも、マイナス領域からゼロぐらいには向上したのではないか、と思わせるぐらい、目から鱗が落ちる思いでどんどん読み進めた。
自分にとって最大のポイントだったのは、人間にはいくつもの顔があるから、「相手次第で、自然と様々な自分になる。」[1]という著者の指摘。しかも、著者はそのことを肯定的に捉えてむしろ積極的に活用すべきだ、とまで主張し、『だからこそ、人間は決して唯一無二の「(分割不可能な)個人individual」ではない。複数の「(分割可能な)分人dividual」である。』[2]と説いている。また、『他者と接している様々な分人には実体があるが、「本当の自分」には、実体がない』と述べ、「個人」という概念に拘泥しすぎる事の危うさを指摘。「本当の自分」は『結局、幻想にすぎない。』と喝破する。
質の高いコミュニケーションを実現するためには「本当の自分」を出せるかどうかが勝負で、常に「本当の自分」に忠実であることが何よりも大事と信じて疑わず、「本当の自分」を出さないままの社交辞令的スモールトークを大の苦手とする自分にとって、最大級のカルチャーショック。しかし、よく考えてみると、TPOを考慮せず、ところかまわず「本当の自分」を前面に押し出してコミュニケーションをしようとすると、その受け手側の人間にとってはたまったものじゃないな、という事に、本書を読んだり、過去2,3年のオンラインミーティング中心の在宅勤務を経験したりして、やっと自分も気づくことができた。
その時々の相手や状況に応じて、自分のどの部分、どの「分人」を出すか使い分けた方がコミュニケーションは円滑に進みそうだな、という事が想像できるようにはなった。ただ、それがうまくできるかどうかはまた別問題ではあるが。
さて、このような天地がひっくりかえるような強烈なカルチャーショックを与えてくれた本書だが、この「分人」と同じ趣旨の概念に、最近やたらと出会うようになり、そのたびに本書の事を思い出している。
直近では、今朝聴いた、アメリカの心理学者アダム・グラントと南アフリカ出身コメディアンのトレバー・ノアが対談したポッドキャスト[3]の中でまた遭遇した。
その中で、アダム・グラントの方から「他人から言われた最悪のアドバイス」を一つ挙げるように言われ、トレバー・ノアは「自分に忠実であれ、というのは酷いアドバイスだと思う。」[4]と答えている。その理由として、そのアドバイスはその時々の状況を考慮していない点を挙げていて、一例として、職場で上司の立場にある人間が常に自分らしさを前面に出してしまうと、同僚や部下に嫌われる可能性もあるだろう、と指摘している。親しい友人同士で話をする時の自分と、職場で上司として振る舞う自分を使い分けず、受けないジョークを連発したり、妙になれなれしくしたりすると、顰蹙を買ったり、周囲に疎んじられたりする事は十分ありえる気がする。トレバー・ノア曰く、『常に自分らしさを出すことがいいとは限らないだろう。ちゃんと空気を読め。』
そういう話に接するたびに、『私とは何か』で著者が提唱した「分人」の概念と一緒だなあと思うし、海外の人も同じような発想をしているのだなあと実感もするし、その考えの有用性の広さに改めて感心してしまう。
[1] 本書、36ページ。
[2] 同上。
[3] Re: Thinking podcast, Host Adam Grant, “Trevor Noah on the importance of context”
[4]以下は 前述のポッドキャストのトランスクリプトから、トレバー・ノアの当該部分の発言内容を抜粋したもの。
“Be yourself, I think that’s terrible advice…Because I think two things. One, telling somebody just to be themselves, ignores where they are being themselves…I know of a lot of people who are like bosses in companies who are themselves…and makes shitty jokes, and hey, that’s fine for you in your life. But now when you are acting as somebody who has power over other people, don’t just be yourself. Maybe you should be more boss, more leader. I think that’s one side of it. Then the other one, maybe this is a little more philosophical, is like, what is yourself? There is no yourself, in my opinion. Be yourself means what?… Often times, I actually think that’s why we end up in the worst place. It’s like, maybe you shouldn’t always just be yourself. No, read the room.”
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