【書評】International Relations: A Very Short Introduction, Paul Wilkinson, Oxford University Press, 2007, 144 pages. アメリカがイギリスに仕掛けた「金融戦争」:1956年のスエズ危機を発端としたポンド危機

 本書の著者、ポール・ウィルキンソン氏は2011年8月に亡くなるまで国際テロリズム論の専門家として活躍し、イギリスのセントアンドリュース大学に1994年に設置されたThe Handa Centre for the Study of Terrorism and Political Violence(CSTPV)[1]の共同設立者の一人でもあった、とのことである。

 本書のねらいは、国際関係に携わる実務家が現場において直面する国際関係の「複雑さと諸問題」について紹介する事、と著者は述べているが、過去の具体的な事例や書籍の引用を交えながら、簡潔にまとめられていて非常に読みやすく感じた。文末の文献リストは短めだが、その分内容が絞り込まれている印象で、実用的だ。

 文献紹介の仕方が効果的で、1956年のスエズ危機(第二次中東戦争)を巡るイギリスとアメリカの外交的対立について言及している箇所は、特に印象的。1956年7月に、エジプトのナセル大統領がスエズ運河国有化を決定したことに反発したイギリスとフランスが、イスラエルと共同でエジプトに侵攻し、第二次中東戦争が勃発。アメリカのアイゼンハウアー大統領とダレス国務長官は、イギリスの通貨ポンドに「終止符を打つぞ、」[2]と脅しをかけてイギリスに停戦を迫ったとされ、最終的にイギリスのアンソニー・イーデン首相は辞任に追い込まれたという。

 本書が引用しているトニー・ジャットの『ヨーロッパ戦後史』(Postwar, Tony Judt)によると、英国のエスタブリッシュメントはスエズ危機での経験を通じ、もう二度とワシントンと対立してはならない、という教訓を学んだそうだ。[3]

 それ以降、歴代の英国政府は、個別の事案に関して米国の行動に懸念を抱く事があっても、米国の立場に忠誠の意を示すことを遵守するようになった、とジャットは述べている。肝心な局面で米国の協力を得るにはそのような行動様式が最善という結論に達し、フランスのシャルル・ド・ゴールとは対極の考え方だった、とジャットは指摘している。[4]

 ここで気になったのは、「ポンドに終止符を打つ」とは具体的にはどのような内容を指していたのか、という事である。アメリカといえども、そんなことが実際にできるのだろうか。

 国際通貨基金(IMF)の研究者が2000年に発表したレポートによると、1956年当時、イギリスはポンドと米ドルの交換レートを1ポンド=$2.80に設定していて、市場から投機的なポンド売りを浴びてポンドの切り下げに追い込まれる事を極度に警戒[5]していたという。そういった中、投機筋のやる気を削ぐために、見せ金の確保が必要だとイギリスは判断し、国際通貨基金(IMF)と米国の輸出入銀行からの与信枠設定に望みをかけていた。1956年9月のIMF・世界銀行のワシントン会合の際に英国当局は米国側と協議し、11月の米国大統領選挙後には金融支援の発動が期待できるという感触を掴み、英国側はいったん安心した、とされる[6]

 イスラエルは10月29日にシナイ半島に侵攻し、[7]その後イギリスとフランスもエジプトに侵攻した。これらの軍事行動に対する国際的な反発が強まると、それが投機的なポンド売りを呼びこんだのかイギリスの外貨準備の減少ペースが加速。結局、国際連合の停戦決議をイギリスは11月上旬に受け入れ、12月にはシナイ半島から兵力を撤収することを表明。その後フランスとイスラエルも撤収し、翌年の4月にはエジプトの管理下でスエズ運河の通航が再開された[8]、というのが事態の推移だったという。

 これはアメリカが初めて「金融戦争」的手法を用いた事例ではないか、という指摘[9]もあるが、「ポンドに終止符を打つ」(pull the plug on sterling) という表現を米国側が実際に使った事を裏付ける資料は見つけられなかった。

 今回、スエズ危機について調べて感じたのは、ポンドは時々、猛烈な売り圧力にさらされる通貨である、という事。どの通貨でも、投機的な売りを浴びることはあると思うが、過去の事例を振り返ると、ポンドは結構派手な売られ方をする時がある事に気づく。一番有名な例は1992年、ジョージ・ソロスによるポンド売りがきっかけで英国が同年の9月16日にERM(欧州為替相場メカニズム)からの離脱を余儀なくされた事例。もっと最近の例では2016年10月7日のアジア時間早朝に起きた、ポンドの「フラッシュ・クラッシュ」[10]。第二次世界大戦の前にも、1938年から1939年にかけて持続的な売り圧力にさらされた時期[11]もあったようだ。


[1] CSTPVのウェブサイトによると、テロリズム論研究を専門とする欧州最古の研究センター、とのことだ。https://cstpv.wp.st-andrews.ac.uk/

[2] “The US began to place considerable public and private pressure on Britain…even threatening to ‘pull the plug’ on the British pound,” Postwar, p. 296.  この”pull the plug” on sterling / the British pound という表現はスエズ危機について語る時にイギリスでよく使われる慣用句のような表現のようだ。

[3] Postwar: A History of Europe Since 1945, Tony Judt, Vintage, 2010 (First published in Great Britain in 2005 by William Heinemann), p. 299.

[4] この「戦略的な修正」はその後のイギリスとヨーロッパに多大な影響をもたらした、ジャットは述べている。Postwar, p. 299.

[5] ポンド圏の崩壊や、強いインフレ圧力につながる事が警戒されていた、という。出典は:Jim Boughton, “Northwest of Suez: The 1956 Crisis and the IMF,” IMF Working Paper, December 2000, p.13. Accessed Oct. 2, 2024.  

[6] Jim Boughton, “Northwest of Suez,” p. 17.

[7]スエズ危機の推移については前述のIMFワーキングペーパーの著者による次のレポートを参照した。スエズ危機がきっかけで生じたポンドに対する切り下げ圧力の投機的側面とその進展の速さは、グローバル化された21世紀型金融市場の特徴に通じる部分がある、とレポートの著者は指摘している。 Jim Boughton, “Was Suez in 1956 the First Financial Crisis of the Twenty-First Century?” Finance & Development: A Quarterly Publication of the International Monetary Fund, September 2001, Volume 38, Number 3. Accessed on Oct. 2, 2024.

[8] Boughton, “Northwest of Suez,” p.3.

[9] David J. Katz, “Waging Financial War,” The US Army War College Quarterly Parameters 43, no.4 (2013).

[10] 流動性が低いアジア時間早朝のわずか40秒程度の間に(23:07:03 GMTから23:07:41 GMT、日本時間午前8時7分3秒から8時7分41秒の間)ポンドは$1.2600前後から$1.1491まで約9パーセント暴落。そこからは急反発し、約13分後には急落前の水準からの下落幅を2.2パーセントにまで縮小するという、頭がくらくらしそうな乱高下を見せた。“The sterling ‘flash event’ of 7 October 2016,” Bank for International Settlements Markets Committee, January 2017, pp. 5-9.

[11] 「英国為替政策:1930年代の基軸通貨の試練」米倉茂、お茶の水書房、東京、2000年。

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