
本書、本谷有希子の『セルフィの死』は不思議な一作だ。主人公のミクルが、知り合いのソラと会うために、乃木坂の待ち合わせ場所に向かうところから、物語は始まる。ミクルは自身のフォロワー数をやたらと意識するタイプで、日焼けが気になるのかアームカバーを付けたり、目元のコンシーラーの着き具合を気にしながら、待ち合わせ場所へと向かう。
客の年齢層が高めの、落ち着いた雰囲気のカフェで、彼女らは合流する。普段行き慣れた場所とは空気が違う。周りの客のふるまいからは、時間とお金のゆとりを持つ者の余裕が感じられる。ミクルは、対応してくれた女性店員の表情や所作が気に食わず、ヘソを曲げる。自分が他人より優位な立場にある事を常に確認しないと、落ち着かない性格らしい。なので、他人に対し常にマウントをとろうとする。
ミクルとソラは、注文したパンケーキと一緒にセルフィを撮り出す。周囲が怪訝そうな表情を見せても、二人は気にする素振りをみせず、セルフィ撮りにまい進する。朴訥そうな若い男性店員が写真を撮りましょうか、と声をかけてくると、ミクルは、自分のペースを乱された事で自尊心を傷つけられたのか、怒り出す。見かねた女性店員が、他の客の迷惑になるので撮影は止めるように、と毅然と二人に言い渡す。
すると、ミクルとソラの顔から出てきていたイソギンチャクが腐りだし、セルフィを撮れないと私たちは生きていけない、と二人は言い出す。彼女たちは一体何なのだ。自分には理解できない、表向きは人の格好をした、異星人なのだろうか。

このような、承認欲求と自我をテーマにしたエピソードが次から次へと繰り広げられる本書を読みながら、先日読んだ新聞記事のことを思い出した。『動画で見つけた私の「真実」』と題された、朝日新聞の5月1日付の記事だった。財務省の前で、財務省解体を叫びながらデモをする人たちがいる、という内容だった。政府の政策に反対し、デモを行う人がいること自体は不思議ではないだろう。ただ、SNS上で見た言説や動画に感化されて、そういうデモに参加するようになった、というデモ参加者の声を伝える内容に興味を惹かれた。
中には、そのデモの様子を撮影し、SNSに動画を流せば、視聴者数が伸びて動画配信から得られる収入が稼げるから、といった理由で現場に来る人が出たり、動画共有サイト「YouTube(ユーチューブ)」に動画を配信している政治系ユーチューバーも、視聴者数稼ぎのために駆け付けたりしていたらしい。
このような事象が示唆するものは何か。視聴者数やフォロワー数を増やすことに躍起になる、ミクルやソラと似た承認欲求と行動原理を持つ人間の数が、SNSの普及に伴い、増殖しているのだろうか。2024年10月23日付の日本経済新聞によると、「ユーチューブ」の十八歳以上の月間視聴者数は2024年5月時点で七千三百七十万人を超えたそうだ。その親会社であるグーグルによると、それは日本の十八歳以上人口の六十八パーセント以上にあたるらしい。
もちろん、SNSが登場するずっと以前から、人の注目を集め人気を博すことが利益につながるビジネスや職業、たとえば民間のテレビ放送、作家、映画俳優、などは存在したわけで、それ自体が新しいわけではない。
ただ、そのような稼ぎ方をするためには放送局、出版社、映画配給会社などの組織とのつながりが必要だった。今やSNSの普及により、個人が自由に対外発信し、人気が出れば直接収入が得られる仕組みが確立されたことにより、目立つことこそが正しく、唯一追求すべき絶対的勝利である、という考え方が世の中にどんどん広まっているようで、不気味さを感じる。
かくいう自分も、書評記事などを掲載するブログを続けている。読者数が増えたとしても、それで直接収入が得られるような仕組みではないにもかかわらず、サイト訪問者数のデータはどうしても気になる。一日に一人でも訪問者がいると嬉しいし、前の週や前の月に比べ訪問者数が増えているときはなおさらである。
異星人のように思えたミクルとソラだったが、人に注目されたいという願望がある、という意味では自分も同じように思える。そのことにどう折り合いをつけていくべきなのだろうか。行き過ぎないようにバランスをとるしか、対処方法はないように思える。
爽やかな読後感など望むべくもないが、世の中の流れについて考えさせられたり、自分自身の価値観と向き合うきっかけを提供してくれたりする、刺激的な作品である。
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